2010年冬景色 檜原湖畔・大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)
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先週の日曜日の写真行脚の最終幕です。 この日のメインターゲットは、『大山祇神社 (おおやまつみじんじゃ)』の鳥居でした。 水位の下がる晩秋から冬にかけて、湖底に水没していた鳥居がその姿を現すという、何ともミステリアスなスポットなのです(^^)
1月2日に撮影行脚に出掛けた際、何とかその場所を確定させたいと思って出掛けたのですが、ついぞ見いだすことが出来ず、約一ヶ月の間チャンスを伺っておりました。 前回の空振り後、しっかりとサーベイし直し、ほぼ場所は特定していたのですが、あとは現場入りしてからの探索に掛かっていました。
桧原湖の西岸、金山地区と檜原地区の間にある事は間違いありません。 共に前回のロケ地でしたので、湖畔路を車で進みながら車内から鳥居を探します。
「あったぁ~~!(^o^)」 見つけましたヨ♪ 湖岸に構えられた鳥居(^^)
車を安全な場所にデポして、湖畔路から降りられる場所を探します。 路肩には歩道が整備されてはいるものの、降り積もった雪に道路の除雪で押しのけられた雪が折り重なり、高さ1m以上の雪の壁になっています(^^;) 雪面を蹴り崩し足場を確保して、雪で嵩上げされた歩道を歩きます。
と、林の奥に神社の本殿を捉えました。 いくらかは人の出入りがあったようで、歩道からの降り口は雪で覆い尽くされてはいましたが、若干道筋が窪んでいます。 そこを雪を踏みながらならして、本殿へと降りて行きました。

[2010/1/31 桧原湖上に姿を現した、大山祇神社の鳥居] <↑ Clickで拡大表示します>
ここ数日は誰一人立ち入らなかったと見えて、鳥居の周囲に足跡はありません。 ラッキ~♪(^o^) 我々の後にカメラマンがやって来るかも知れないので、出来るだけ雪原に足跡を付けないように撮影開始。
境内から撮影していると、生い茂る木々の枝から、雪解け水やら溶け落ちた雪が降ってきます(^◇^;) カメラへの直撃はゴメンですので、早々に撮影を進めて、雪原へと足を踏み入れます。

[2010/1/31 桧原湖上に姿を現した、大山祇神社の鳥居] <↑ Clickで拡大表示します>
桧原湖は1888年の磐梯山大噴火により飛散した堆積物で、川がせき止められて出来上がりました。 同様にこのエリアには、200以上と言われる湖沼群が生成されることとなりました。
この神社から200mほど沖の位置には、湖に没した集落がありました。 その昔は、宿場町として栄えていただけで無く、側近の金山地区には、その名の通り金山があったそうです。 江戸時代には金鉱掘りの人足が1,000人も住んでいたと言います。
『大山祇神社』は、そんな集落にありましたが、湖底に沈むこととなり、現在の本殿は多分後年に建立されたものと思われます。 と、言うのも、どう見ても江戸時代の建築物には思えなかったから(^^;) ともあれ、この神社が湖底に沈む集落を見守り続けていると言う事です。

[2010/1/31 桧原湖上に姿を現した、大山祇神社の鳥居] <↑ Clickで拡大表示します>
手前の鳥居は造型が現代的ですので、多分後に造られたものでは無いかと思われますが、湖上に姿を現した奥の鳥居は、元々のオリジナルでしょう。 参道に並んでいた樹木の切り株が、整然と一直線に本殿への道を指し示しています。

[2010/1/31 桧原湖上に姿を現した、大山祇神社の鳥居] <↑ Clickで拡大表示します>
実は『大山祇神社』にまつわる史実を、出来る限り探してみたのですが、あまり多くの情報を得ることが出来ませんでした。 ここでご紹介している話は、方々からかきあつめた情報を基に、無芸が理解した範囲で書き記しております。 きっと郷土の歴史文化を研究しておられる方も少なくないと思いますので、機会があれば是非ともご教授頂きたいものです。

[2010/1/31 桧原湖上より、デコ平を望む] <↑ Clickで拡大表示します>
湖上から北側を見れば、デコ平のやまなみが白い頂となって見通せます。 『大山祇神社』の沖合には、ワカサギの穴釣りを楽しむ釣り客が色とりどりのテントを据えています。 そう、その水面下には集落跡が・・・(^^;)
湖畔路からの道筋を造り、鳥居の周囲も時折深雪に足を取られながら、撮影ピットを造りましたので、日曜日にお休みの取れない、写真仲間のmaruさんにメールを打っておく。
「ちゃんと足場は造っておいたからねぇ~♪」
お陰でmaruさん、前夜の深酒に堪えた躰にムチ打って、翌日ここを訪問しておられました(笑) 義理堅し(爆)
1月2日に撮影行脚に出掛けた際、何とかその場所を確定させたいと思って出掛けたのですが、ついぞ見いだすことが出来ず、約一ヶ月の間チャンスを伺っておりました。 前回の空振り後、しっかりとサーベイし直し、ほぼ場所は特定していたのですが、あとは現場入りしてからの探索に掛かっていました。
桧原湖の西岸、金山地区と檜原地区の間にある事は間違いありません。 共に前回のロケ地でしたので、湖畔路を車で進みながら車内から鳥居を探します。
「あったぁ~~!(^o^)」 見つけましたヨ♪ 湖岸に構えられた鳥居(^^)
車を安全な場所にデポして、湖畔路から降りられる場所を探します。 路肩には歩道が整備されてはいるものの、降り積もった雪に道路の除雪で押しのけられた雪が折り重なり、高さ1m以上の雪の壁になっています(^^;) 雪面を蹴り崩し足場を確保して、雪で嵩上げされた歩道を歩きます。
と、林の奥に神社の本殿を捉えました。 いくらかは人の出入りがあったようで、歩道からの降り口は雪で覆い尽くされてはいましたが、若干道筋が窪んでいます。 そこを雪を踏みながらならして、本殿へと降りて行きました。

[2010/1/31 桧原湖上に姿を現した、大山祇神社の鳥居] <↑ Clickで拡大表示します>
ここ数日は誰一人立ち入らなかったと見えて、鳥居の周囲に足跡はありません。 ラッキ~♪(^o^) 我々の後にカメラマンがやって来るかも知れないので、出来るだけ雪原に足跡を付けないように撮影開始。
境内から撮影していると、生い茂る木々の枝から、雪解け水やら溶け落ちた雪が降ってきます(^◇^;) カメラへの直撃はゴメンですので、早々に撮影を進めて、雪原へと足を踏み入れます。

[2010/1/31 桧原湖上に姿を現した、大山祇神社の鳥居] <↑ Clickで拡大表示します>
桧原湖は1888年の磐梯山大噴火により飛散した堆積物で、川がせき止められて出来上がりました。 同様にこのエリアには、200以上と言われる湖沼群が生成されることとなりました。
この神社から200mほど沖の位置には、湖に没した集落がありました。 その昔は、宿場町として栄えていただけで無く、側近の金山地区には、その名の通り金山があったそうです。 江戸時代には金鉱掘りの人足が1,000人も住んでいたと言います。
『大山祇神社』は、そんな集落にありましたが、湖底に沈むこととなり、現在の本殿は多分後年に建立されたものと思われます。 と、言うのも、どう見ても江戸時代の建築物には思えなかったから(^^;) ともあれ、この神社が湖底に沈む集落を見守り続けていると言う事です。

[2010/1/31 桧原湖上に姿を現した、大山祇神社の鳥居] <↑ Clickで拡大表示します>
手前の鳥居は造型が現代的ですので、多分後に造られたものでは無いかと思われますが、湖上に姿を現した奥の鳥居は、元々のオリジナルでしょう。 参道に並んでいた樹木の切り株が、整然と一直線に本殿への道を指し示しています。

[2010/1/31 桧原湖上に姿を現した、大山祇神社の鳥居] <↑ Clickで拡大表示します>
実は『大山祇神社』にまつわる史実を、出来る限り探してみたのですが、あまり多くの情報を得ることが出来ませんでした。 ここでご紹介している話は、方々からかきあつめた情報を基に、無芸が理解した範囲で書き記しております。 きっと郷土の歴史文化を研究しておられる方も少なくないと思いますので、機会があれば是非ともご教授頂きたいものです。

[2010/1/31 桧原湖上より、デコ平を望む] <↑ Clickで拡大表示します>
湖上から北側を見れば、デコ平のやまなみが白い頂となって見通せます。 『大山祇神社』の沖合には、ワカサギの穴釣りを楽しむ釣り客が色とりどりのテントを据えています。 そう、その水面下には集落跡が・・・(^^;)
湖畔路からの道筋を造り、鳥居の周囲も時折深雪に足を取られながら、撮影ピットを造りましたので、日曜日にお休みの取れない、写真仲間のmaruさんにメールを打っておく。
「ちゃんと足場は造っておいたからねぇ~♪」
お陰でmaruさん、前夜の深酒に堪えた躰にムチ打って、翌日ここを訪問しておられました(笑) 義理堅し(爆)
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